昨日のマーケティングリサーチに関する話に引き続き、フォトグラフィーに関しても、サイエンスとアートの境界線について思うことを書いてみたいと思います。ずばりポイントは、サイエンスなフォトグラフィーと、アートなフォトグラフィーについてです。
以前このブログで、「【棚倉町】赤舘公園から見た季節の移り変わり Ver0.1」という記事を書きました。その記事では、同じ被写体を取る場合に可変要素がどれだけあるかについて、
こうやって何回か通って比較すると初めて分かるんですが、同じ公園から町の景色を撮ろうとしても、最適なロケーション、ポジション、アングル、焦点距離、季節、天候、時間帯は、全て異なるんですよね。
という表現をしていました。これが今から1年前の、2016年12月14日のことです。フォトグラフィーのステップを、1.場の選択、2.撮影、3.加工、4.共有という4段階に分けたとき、当時の指摘は2.撮影のみに値するものでした。(このステップ分類は昔の記事の内容から「鑑賞」を除き、「場の選択」を加えたものです。)
今改めて、フォトグラフィーにおける理想を求める上で、他者による再現性があるサイエンスな(つまり演繹的な)要素と、他者による再現性が無いアートな(つまり帰納的な)要素にて分類してみます。
同じ場所で撮影することは誰でもできます。上の引用で言う、ロケーション、ポジション、アングル、季節、天候、時間帯は全て再現可能です。観光地が典型例ですね。
ただし、特定の日時を組み合わせたり、遭遇率の低い天候を組み合わせて意味付けをすることで、再現可能性を低くすることは可能です。ケント白石先生が、青い池の初雪写真を一般公開せず、毎年海外の富豪に販売しているのが好例だと思います。
撮影のステップは、私が知る限りは全て再現可能です。ボディ、レンズ、焦点距離、画角、フィルター有無、シャッタースピード、F値、ISO感度、ホワイトバランス、その他設定が該当します。再現は十分に可能なので、ここにアート的要素は無いと思います。
加工のステップは、昨今の画像加工アプリの隆盛によってお手軽になった感が非常に強いステップです。コントラストを上げましょうとか、彩度を上げましょうとか、シャドーを持ち上げましょうとか、そういった教科書に習った加工は非常にサイエンス的です。
一方で、目の前の写真を、自らが見た主観的な色世界に完全一致させようとする試みは、再現不可能なプロセスに様変わりするわけで、その限りにおいて、このステップは最もアート的要素が強くなると感じました。
共有のステップは、アート的にこれもまた重要なステップに思います。というのも他者に伝える上で、写真の価値をストーリーとして表現する必要があるからです。誰が、いつ、どこで、どうやって伝えるか、いかに独自のストーリーを鑑賞者の心に創り上げられるかは、このステップ次第だと思います。
どんなに努力して創り上げた1枚であっても、このステップ次第で如何様にでも変貌するので、その意味では力の見せ所ですが、逆に中長期的な自身のブランディング、ストーリー形成が鍵になる点は留意が必要です。
1.場の選択〜4.共有までを見てきました。初心者が一番ウキウキしがちな 2.撮影のステップが最もアートから遠い一方で、3.加工〜4.共有のステップがアート的であるというのは、撮ったあとが大事という言葉に繋がってくるのだと思います。
さて、主観的な色世界を厳密に表現しようとするプロセスは、美意識の鍛錬にも役に立ちそうな気がしています。というのも、写真の現像は、ビジュアル・シンキング・ストラテジー(VTS)で重視されている『目で見た世界の表現』を高度に処理するプロセスだからです。
・・・ただし、一つだけ留意をしないといけない点があります。3.加工のステップはたしかに良い訓練にはなるものの、アート的な価値を発揮できるのは現行のカメラに根本的な欠陥、つまり光の強さを忠実に写し取るがために目で見た色と決定的に異なる仕様があるからで、これが解消されたら本格的に4.共有のステップだけの勝負になってしまうということです。
これはまた、別の機会に書こうと思います。
ということで最後に数少ない今年の紅葉の写真をば。