育児をプロジェクトマネジメントとして考えれば、定期的に時間をとり、メンバー(夫婦)が面と向かって話すことが大切だと思います。ということで家で育児を始めてから1ヵ月を記念に振り返りミーティングをした結果、ツーオペ育児で自発的に休む難しさに直面したので書き連ねてみます。
定番の手形足形。これも時間がかかる。
★注意★
育児は人それぞれです。100の家庭があれば100の事情があり、100の育児があって然るべきものです。たった1つのあるべき姿なんて存在しません。人の意見を鵜呑みにするのは危険ですし、逆に安易に強要してよいものでもありません。自らが、家庭環境と子供の状況を見定めたうえで、子供とどう成長していきたいかを考え、これだと思う方法に思い切ってチャレンジしつつもダメそうなら変えていくトライアンドエラーの姿勢が大切だと思います。なのでこの投稿も、鵜呑みにしないでください。
ということで一時間ほど妻と議論した結果、筋力を回復させたいとか、背中と肩と腰がバキバキで痛いのをどうにかしたいとか、たまりにたまった家計費の精算をしたいとか、ゴミが5割増になったからゴミ箱を見直したいとか、入浴しやすいように風呂場まわりを見直したいとか、色々な課題が出てきたわけですが、もっとも懸念された課題がこちら。
「育児以外が進まないのをどうにかしたい」
育児以外と言えば、趣味の時間をとったり、運動をしたりするだけでなく、内祝いを送ったり、記念ごとをしたり、諸々の手続きを済ませたりなど、ありとあらゆることが該当するわけですが、こういった類のものが停滞していると達成感が出ないというよりかは自己肯定感が逓減していきます。これはあらゆるネガティブな事象の原因になってしまいます。
育児以外のやることが進まない背景にある問題は『時間がとれない』ことに尽きるのですが、いちおう週休1日制を導入してみたのに、なぜ『時間がとれない』のかを考えていくと、少し根深い原因があることが分かりました。
まず、
「常時寝不足で睡眠時間を拾い集める日々なので、多少の時間がとれたとしても仮眠に当てた方がよいのでは・・・という気持ちが出てくる。」
これは痛い。
娘は3時間以上続けて寝ることもあれば、寝ても10分20分ですぐ起きるのを繰り返すこともあるため、安眠が約束されない中では睡眠時間の確保を優先せざるを得ません。
対策としては、やはり、普通にしていれば適度な睡眠がとれるという心理的安心を、実績によって作り出すしかありません。
次に、
「自分が休んだらパートナー(この場合は私)が疲れるだけなので、自分から休憩を申し出るのは気が引ける。」
これも痛い。
人に対して優しすぎるのが仇となっていて涙を禁じ得ない一方で、どちらかというと商習慣的に積極的に休む発想自体を持ち合わせていない側面が垣間見えた気がしました。
もう少し具体的に言うと、例えば『体力的に限界が近いので休む』や『ストレスがたまってきたので休む』のようなネガを解消するための休暇申請や、『家族の集まりがあるので休む』、『友人に誘われたので休む』のような外部要因による休暇申請には慣れているようなのですが、
一方で、『旅行に行きたいから休む』、『本をまとめ読みしたいから休む』のように、完全なる自己都合での休暇申請をするという発想がなかったようなのです。
当の私は棚倉町を平日訪問するために休暇申請するぐらいには自由だったので、同調圧力の強い日本における一般的な職場の感覚に家庭内で直面して強烈な気付きを得たわけですが、それはそれ、これはこれ。
もう、「自由に休んでよいよ」と言い続けます。
そして、
「お出掛けすると疲れる。帰ってきたらすぐに育児だと思うとつらい。」
帰ってきてから何時間休憩したいかを含め、何時から何時まで休みをとりたいかをコミュニケーションしておけばOK。家の中でのんびりしていても全然OK。
もう、「自由に休んでよいよ」と言い続けます。
さらに、
「外出ではなくて、家でやりたいことがあるときはどうすれば・・・?」
何かの作業をしたくて家の中でまとまった時間が欲しいときも休暇申請OK。休暇=職場(家)を離れる、ではなくてよいわけです。休暇はもっと自由になるべきです。
もう、「自由に休んでよいよ」と言い続けます。
結局のところ、自発的に休暇申請ができて、自分のやりたいことをやりたいようにやれることが、時間的にも物理的にも束縛力の強い育児ストレスからの脱却に有効なわけで、巡り巡って育児のクオリティアップならびに私自身の休暇の取りやすさにも繋がるわけなので、もう、シンプルに
「自由に休んでよいよ」
という言葉に尽きるわけです。
それでも休みづらい雰囲気が家庭内に流れるとしたら困るので、さらなる追加策として、
あたりを積極的におこなっていきたいと思います。引き続き頑張ります。
追伸:育児休業がリフレッシュ期間になるやもしれぬと思っていた節がお互いにありましたが、それは『休暇的なリフレッシュ』というよりは、『それなりの社会人経験を経て再びゼロから新鮮な業務に就く的な意味でのre-freshである』という結論に至りました。