太陽の写真は、アートとして、他の写真より優れていると感じました。
皆が、本能的に、無意識に、夕日を見つけたとき、朝日を見つけたとき、カメラを構えてしまうのは、同じ理由が背景にあるんだと考えています。
そんなことを言っているのはなぜかと言うと、とある写真がきっかけにあります。それは、先日に鶴見川で夕日を撮ったときに収めていた、もう1枚の写真です。
鶴見区の北端、鶴見川のほとりにかかる鷹野大橋。川面に沈む太陽だけでなく、橋と富士山とヨシが一緒に撮れる珍しいスポットです。(ヨシはススキの親戚です。見た目は区別がつきにくいです。)
凍てつく空気が、これでもかと言わんばかりに吹きすさんでいて、カメラを構える手を震えさせます。そそくさと歩いてゆく人はいるけれど、立ち止まってカメラを構える人は他にいないような状態です。それでも陽光をしっかり捉えるため、そんな悪条件の中でもF値を絞ってシャッタースピードを極限まで遅くしました。普段よく使うf/16からさらに絞る、強気の設定でした。
ファインダーから覗くと、思わず声が漏れました。
「眩しすぎる・・・!」
そう、もはや、自分の目で直接拝むことができるレベルではなかったんです。急激に冷え込んだ空気は空遠くまで澄みきっていて、太陽の光を余すことなく届けていました。これだと直視などできません。ゴーストのフレームアウトも、撮っては画面で確認しての繰り返し。数打っての調整の賜物でした。それでも消しきれていないですけれど。
でも、太陽はしっかりと写真に写っているんです。
そこで私は、とある事実に気付きました。
太陽の写真は、人が本来見ることの許されない被写体を、見ることができたらこういう見え方をするだろうという表現に、見事に形作っているんですね。見ることが出来ないから、カメラを通して確認する。よく考えれば、夕日や朝日を撮ろうとするのは自然な思考なんですね。
太陽は、そもそも見ることが許されないものなんです。目の前にある夕日の風景を見て、あなたが自分は見たと思って頭に思い浮かべるその風景は、脳が主観的に色やコントラストを調整して創り出した世界なんです。なので、自分が見ていると思っている風景を写真に落とし込む作業は、実は極めて主観的な行動なわけです。
写真がアートであるかどうかの議論の中でよく言われるのが、「目の前の風景をただコピーしているだけではないか、そこに主観的な創造性などないではないか。」という主張です。その主張に明確に反論できるのがこの太陽の写真だと思います。
・・・ここまで書いていて、ケント白石先生の記事を思い出しました。
今回撮影していて感じるのは、やはり何 と言っても、電子ファインダー(EVF)の素晴らしさです。太陽周辺に見える微妙な雪の状況を確認しながら撮影出来ます。光学ファインダーで太陽を見続け る事は危険でありすべきでありません。僕と撮影ツァーで同行している方は、ほぼ例外なくSONYのミラーレス一眼に驚き・感動・そして納得して帰ります。 どうやら僕の周辺のプロ達も使い始めたようです。まあ当然でしょう。道具の実力差はいかんともしがたいものですから…。(引用元:Kent Shiraishi Photo Studio)
太陽が眩しい中での調整は、やっぱり目に良くないんですよね・・・。ついSonyを買いたくなってしまいました。それでもCanonボディの手のフィット感は捨て難いので、Canonが電子ファインダーを将来搭載してくれるのを待っていようと思います。
Canonファイト!