ケント白石先生が新しい記事を書いた。
それを見て、漠然と持っていた疑念が明確に形になった。
「あんた写真家なんだろ? しかもプロ写真家なんだろ?、だったら写真で勝負したらどうだ!」「500pxは知ってるか? 世界中に500万人以上の会員数を誇る世界一大きな写真サイトだ。」「そのサイトであんたと僕は二つの新しいアカウントを取る。そして写真を投稿して24時間後自動的に表示される点数がお互いの評価だ。世界中の会員が審査員になる。0.1点でも点数の高い方が勝者だ!」(引用元:Kent Shiraishi Photo Studio)
写真家が勝負するのに人の評価が必要なら、どちらがいい写真を撮るか決めるのに人の評価が必要なら、人の評価を受けていない写真の価値はなんなんだろう。
いい写真。
言葉にするだけなら簡単だ。
日夜、世界中のフォトグラファーが、いい写真を撮ろうと切磋琢磨する。
だけども、真っ暗な道を不安になりながら、手さぐりしながら進むかのように、何がいい写真なのか分からずに写真を撮り続け、どう転ぶか分からない世間様の評価を怯えて待っているのは全くもって不健康だと思うわけで・・・
とは言いつつ、いい写真に工学的な定義があるわけでもない・・・
するとやっぱり、
"より多くの人の心を、より深く動かすのがいい写真"
みたいなものが、いい写真の基準になってしまうのだろうか。なんだか、ありきたりの、できそこないの民主主義みたいで変な感じしかしない。
この1枚の写真を見た人は、何を思うんだろう。
この写真を撮ったのは、今月の初め。鶴見に引っ越して初めての朝、家の窓から撮った写真だ。凍てつく冷気の中、強烈な日差しがまっすぐ部屋に入ってきた。思わずF値を絞り、シャッタースピードを速くした。自分にとってのこの1枚は、新しい生活の幕開けを象徴するものだった。
でも、それは自分だけ。
そう感じるのは自分だけ。
自分以外のその他大勢の人は、この写真を見ても、ビルの合間から昇る太陽の写真としか思わないだろう。カットしきれなかったゴースト入りなので、アートとして優れたものとも言えないだろう。
これはいい写真、なのだろうか?
いい写真の定義を追い求めることは、いい写真自体を追い求めること以上に大変なことだと感じた。